「力の抜き方がわかりません」という方がとても多くなりました。
施術中、「先生、私、力抜けていますか?」と。

「力の抜き方がわらないことが解る」だけで大きな一歩です。
私は、「それで良し」というスタンスです。
実際、力が入っていることが解った時点で力は抜けておりますし、身体が解放へ向かうきっかけとなる。
そんな時、「ね。自分を見失っている状態ですから痛めるんですよ」と、私はお伝えするのですが。
「そうよね」と笑ってくれたり、直ぐに理解してくれたりする人もいれば、極稀に、「ムッ」とされる方もいらっしゃいますm(__)mご、ごめん。

「力の抜き方が解らない」状態=「自分を見失っている」状態です。
「自分を見失う」方法は簡単で、自分以外のコトばかりを見つめて生きれば、自分をどんどん見失うことができます。
おかしな文章ですが(笑)
今、力の抜き方が解らない人が増えた大きな理由のひとつは、「スマホ」でしょう。
スマホを使っているのか。
スマホに使われているのか。
私自身、使われているように感じることがあります。
スマホに支配されているなと。
スマホの家畜になっている時があるm(_ _;)m情けないですが…
電車に乗れば一目瞭然で、現時点において既に、「スマホに支配されている」人は多いと感じます。
電車はそんな自分を正してくれる。
電車に乗ると、スマホの家畜である私が、スマホの家畜でありそうな人々を見て、スマホを閉じます(笑)
AIが人間になる日も、近いのでは?
朝から晩までずっとスマホを観ている人は多い。
暇さえあれば、スマホ。
スマホは使い方次第で、自分を見失う上でとても役立つツールです。
スティーブ・ジョブズが自分の子供にスマホを与えなかったことは有名な話です。
中毒性を解っていたのでしょう。
ちなみに私の師匠も、お子さんが高校を卒業するまでスマホを与えなかったとおっしゃいます。
よく私のセミナーで話すのですが、電車に乗ると、我先に座ろうとする人っているでしょ?
アレは一刻も早く、「自分の身体を忘れたいから」なのです。
一刻も早く、「自分を見失いたい」のです。
自分の身体のことなどさっさと忘れて(たとえば、脚の疲れとかを忘れて)、スマホに
(自分以外のコトに)集中したいのです。

スマホから流れてくる外部からの刺激に意識を向けていたい。
何故か?
「楽だから」です。
自分で何かモノを考えなくても、刺激的な映像や情報がガンガン流れてきます。
それさえあれば、退屈もしない。
今日一日の嫌なコトも忘れさせてくれる。
自分の内部に蓄積したものを感じなくて良いのですから、とにかく「楽」なのです。
歩きながらもスマホを手放せない人は多いです。
エスカレーターに乗りながら、スマホを観ている。
信号待ちでは、すぐにスマホを開きたくなる。

今は全員が下を向いて生きいるのです。
現代ほど身体を使わなくて良くなった時代は、おそらくありません。
その楽さに溺れると、いつの間にか自分を感じる機会がなくなります。
身体の使い方が雑になっていることにも、気が付かなくなります。
先日、「面白いな」と思うことがありました。
ご来院の方に、「大きめに足踏みしてみて」と伝えると、「ガンッガンッガンッ」と強く足踏みをされた人がいましてね。
それこそ、下の階に響くレベルの。
無意識にやっていますから、ご本人はその自覚なしです。
日頃からそういう身体の使い方をしているということです。
まず、足音が大きい人は、身体を痛めます。
膝や腰は、普通に痛めるでしょう。実際、その方は腰痛ですからねm(__)m
踵からのショックが大きい人は、顎関節にも炎症を起こします。
耳に水が入った時、どうやってその水を出しますか??
かるく飛び跳ねてガンガンッて、耳に振動が伝わるようにするでしょう?
足からのショックは簡単に頭に届きます。
頭痛になってもよいわけです。
その方に、「そんなにガンガン打ち付けないで」と伝えると、「え?打ち付けてました?」と。
すると今度は、「ソローリソローリ」やるわけですが、どうも動きとしてギコチナイ。
ちょっとワザと嫌な言い方になりますが、「身体が馬鹿になっている状態」なのです。
腰が痛いことを考慮したとしても、何か縛られているかの如く、身体を使うわけです。

「自分を見つめる」機会が少ないのです。
常に外からの情報に追われている。
というよりも、外からの刺激を自分が追い掛けているのです。
「痛み止め(あらゆる薬)」を使うということは、自己を省みる機会を失っていることと同義です。
臭いものに蓋をしているわけですから。
その場は良くても臭いものが醸成され続けます。
「痛み止め(あらゆる薬)」も、「スマホ依存」も、「我先に椅子取りオジサン」も、根っこは一緒です。
「自分を見つめないようにしている」のです。
だから、自己を見失う。
力の抜き方すらわからなくなっていたことに、気づかないのです。
「力の抜き方が解りません。」
これは一種の現代病だと私は感じております。
では何故、整体を受けると良いのか?
力が抜けない自分と対面できるからです。
言ってしまえば、これだけで価値がある。
だから私に、「自分を見失ってるね~」と言われて、「ムッ」としている場合ではないのです(笑)
喜べば良いのです。
「アレ?力の抜き方が解らないかも!?」と気づくだけで良いのです。
施術を受けることで、自己に内在する無自覚な力みに気づく。
如何に自己を見失っていたかに気づく。
置き去りにされてきた自己(見ないようにしてきた自分)を、整体施術を通じて、「置き去られていたことに気づく」のです。
そこで出る言葉が、「先生、私、力抜けていますか?」「力の抜き方が解らないです」なのです。
自己を取り戻せて良かったね。
「お帰りなさいッ!!」
という話なのです。
これだけで、身体は治癒へ向かうきっかけとなる。
あのね。本当だから。
面白くないですか?
自分が力が抜けていないことを知るだけで、治癒力が発動するのですから。
でも施術家でさえも、そのことに気づいていない人は多いと思います。
「力抜いてって言っても、抜いてくれないんです!!!!」とか、よく受講生から質問がきますから。
いやいや。
イイじゃん!!って。
「そのお客さんご自身が、力が入っていたことに気づけただけで、もうイイじゃんッ」という話なのです。
施術家の多くは、自分がやりたいことをできないと、イラつくようです(笑)
「自分を見つめる」ということは、「我執」とは対極にあります。
「自分が自分が」という状態が「我執」ですから、そういうことではない。
「我執」もやはり外との(他者との)比較の中から「自分を見失っている」状態と言えるわけです。
「自分が」は、「他人と比較して自分が」ですから。
「自分を見つめる」とは、自分がどういう状態にあるのか意識を向けてみることです。
自分を観察してみる。
肉体もそうだし、日々何を考え、何を感じているのかもそうです。
たとえば、「何故こんなにもスマホが手放せないのか」と、自己を省みるのも「自分を見つめる」ということです。
または、「どうしてこんなに食べ過ぎてしまうのだろう」「どうしてこんなに運動せずにはいられないのだろう」など。
後者は、積極的な理由なのか、不安の裏返しなのか、観察してみると面白いです。
または、「どうしてこの仕事をしているのだろう」「どうして今こんなに不満があるのだろう」などなど…
目を閉じて自分をほじくってみる。
誰に見られるわけでもないですから、自分の気持ちをノートに書き出してみるのも良いでしょう。
自分と向き合う機会と共に、余計な力みを捨てることができます。
ほどよい緊張こそ、力となります。
力の抜き方が解らない自分を、ほじくってみるが善し。