読書と整体

解らなければいけないという幻想について

このブログの、というよりも開業以来17年、「当院の象徴」とも言える亀の歩みの如く、

先月から吉本隆明氏の共同幻想論を読み始めております。

「読む」というよりも、「挑戦」という感じが正しく、読んでいても何を言っているのかは今の私にはよく解らないです。

同じ日本人なのに。

解らないからツマラナイのではなく、解らないのは当たり前と言えましょう。

ふつうに考えて、大学を卒業するまで本など一切読んだことがないような私が、昔からずっと残ってきている、そして名前だけは何となく知っていた知識人の名著と言われるものを手に取り、いきなり理解できるなど思う方が、「傲慢」なのだと思うのであります。

私の尊敬する大好きな執行草舟社長の書には、「わからぬがよろしい」と書いてあります。

「わかろうとするな」と。

この言葉にはとても力を頂きました。

 

どうしても私は頭で理解をしたくなります。

理解できないと、答えが欲しくなる。

私は現代人特有の、「即、答えが欲しい病」なのです。
「自分で考える」ということに弱いのです。

何でもスマホで答えをかんたんに見つけられる時代ですが、スマホで答えが見つかるモノになど、ほぼ価値はないように思います。

テレビ情報に価値がないのと同様です。

 

「答えなき問を問い続ける」ことの方が、よっぽど人間にとっては大切であり、それが失われたことで戦後日本人は脆弱にさせられてきた(好き好んで脆弱を選んだ)ように思うのです。

 

だから今は、聞こえの良いかんたんな本しか売れないのです。

 

解かろうとしなければ、どんなに難しいと思う本でも読めることを知りました。
解かろうとしなければ、読めるのです。

 

この共同幻想論にもたくさんの解説書が出ておりますが、解説書を読んでわかった気になっても意味がありません。

自分の「ない頭」で吉本隆明氏の思想とぶつかることで、たった一行何か掴めたら、それでラッキーと思いながら、日本語を読んでおります。

先ほども書いた通り、理解しようとすると、まったく進まなくなります。

「ただ読んでいる」が現状ですが、それが何とも楽しいのであります。
心地が良い。

 

現在は、「禁制論」が読み終わったところです。
まだまだ前半戦ですが、「先生、どんな本なの?」と問われましても、「読んでみれば」としか答えようがない状況ですので、聞かないで下さい(笑)

 

この解らないことが、いつか少しずつ解るようになっていく、それ以前に、「考える余地が出て来る自分」と出会えることを楽しみにしております。

読書は答えを見つけるために読むのではなく、問いを見つけるために読む。

その見つけた問を考え続けることが、最強の脳トレと言えるのではないでしょうか。

脳を刺激することは、腸を刺激することでもあると考えれば、流行りの腸活にもなるでしょう。

ヨーグルト食べるよりも、良書と向き合い、理解できない自分の頭のなさと向き合うと、「あ、俺ってこんなに阿呆なんだ」と前向きになり、腸が元気になります(笑)

難しい良書こそ、最大の腸活です。
少なくとも、私の腸内細菌は喜んでいることが解る。

 

というわけで、「読書と整体」というブログカテゴリーに分類してみました。
まだまだ新しいブログなので、これからカテゴリーを増やしていこうと思います。

 

P.S.
今朝は6時40分頃自宅を出発しました。
涼しかったので、歩きスマホならぬ、「歩き幻想論」で出勤しました。

やってみて思ったのですが、歩きながら読書はちょっといいかもしれない。

なんとなく、自宅の椅子にジッと座って読むよりも、スイスイ軽快に読めました。
日本語を。

引き続き、吉本隆明氏との対話を続けて行こうと思います。

きっと吉本氏は、今の私との対話は退屈なことでしょう。

問いすらなかなか生まれないのだから…

吉本氏に刺激を与えられるようになりたい。

 

では、今日も最高の一日にしましょう。

 

P.S.
2024年10月1日(火)より、このブログページに引っ越すことにしました。

過去のブログはこちらです→ぴゅあカイロプラクター日記

こちら(ココログ)も、たまには更新を続ける予定です(*^^)v

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toruimizu
東京都五反田の射水姿勢リフォームを経営しています
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